早朝の中辺路をゆく小松勇二郎さん(秋山哲也撮影)
刈り取って間もない稲束が、棚田で朝日を浴びている。あぜ道に咲く彼岸花が燃えるように赤い。
世界文化遺産でもある紀伊半島の「熊野古道」。熊野本宮(和歌山県田辺市)を目指す「中辺路(なかへち)」は、その代表的なルートだ。杉木立の中に炭焼きの煙がたなびき、棚田を潤すため池がひっそりとたたずむ。尾根から谷へ、再び尾根へといざなう道は、今も山人の暮らしの道だ。
「これはリスが置いていった松かさの食べかす。形がエビフライに似てるでしょ。ここにもあった!」
藍(あい)の作務衣に地下足袋姿。ヒノキの薄板で編んだ笠(かさ)の下で、参詣者を案内する「語り部」の小松勇二郎さん(57)のひげ面がいたずらっぽく笑った。
熊野参詣は「王子」と呼ばれる小さな社を訪ねながら、本宮を目指す旅が基本。小松さんのような「語り部」は旧中辺路町(現・田辺市)周辺に約50人いる。地元出身の小松さんは定番の歴史の解説もするが、人々の暮らしと自然の説明に徹底してこだわる。
「熊野の森は、こけむした巨木から腐葉土に潜む昆虫や微生物に至るまで無限の命の塊。人もまたこの『命のじゅうたん』の織り糸の1本に過ぎない。だから昔の人たちは信仰の対象にした。自然を抜きに熊野は語れません」
小松さんが家族と共に中辺路にUターンしたのは11年前。以前は京都大学でコンクリートの研究に没頭していた。より良い品質のコンクリートを開発し、長持ちする建物を造りたい――。経済性重視の現場では、そんな思いは簡単には受け入れられなかった。
京都で暮らした20年間は、町家づくりの伝統家屋がつぶされ、安価なコンクリートビルに置き換わっていく時代と重なる。日の目を見ない研究にも焦燥感を募らせていたある日、阪神大震災が起きた。
調査に入った神戸市で崩れ去ったビルを見た。「自然という支えのない都会はアスファルトの上の虚構ではないか」。舗装がめくれ、むき出しになった地面を見て思った。
熊野の自然とて安泰ではない。こけむした巨木と石畳。幽玄の景色だけをイメージして来た参詣者は大抵、期待を裏切られる。森林のほとんどは戦後、植林されたスギやヒノキだし、道もあちこちでアスファルトの車道に姿を変えてしまっているからだ。
「これは正月飾りに使うウラジロ。子供のころ、こうやって飛行機みたいに飛ばして遊んだ」「イノシシがミミズを取るため土を掘った跡。こっちはモグラの穴。まだ新しいね」。杉林を貫く尾根道を小松さんと一緒に歩いていると、自然の脅威と向き合い、おそれを抱きつつ歩いた先人の思いが伝わってくる。小松さんは「熊野の自然には変貌(へんぼう)してなお、人々をひきつける懐の深さがある」と言う。
中辺路の古道沿いに幹回りが10メートル近いスギの巨木が集まる一角がある。明治政府の神社統合政策で鎮守の森が伐採されようとした時、和歌山市出身の博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867~1941)と地元民が猛反対して守った森だ。
小松さんは、参詣者と一緒に、ここでよく「無言の行」をする。自然の声に耳を澄ますたび、信仰を生み出した源泉をくみ尽くしてはいけないと強く思う。
「先達」。かつて古道を歩いた参詣者は、先導役の案内人を、そう呼んで敬った。現代の「先達」である「語り部」たちに寄せられる期待もまた大きい。(科学部 佐藤淳)
(2006年9月30日 読売新聞)
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